書くこと、考えることの自治を取り戻すために
2006年ごろに、yahooのサイトで、ソーシャル・ネットワーキング・サービス という謎のカテゴリを見つけてから20年が経った。
当時は会員制でメンバーシップを得た人たちだけがアクセスするクローズなウェブサイト、ぐらいの認識でいたSNSは言うまでもなく、非常に広大かつ強力なメディア・プラットフォームへと成長した。しかしながら同時に、いつからかそこのメディアの中で最適な発信を行うことに苦心する自分がいることにも気づいており、その薄寒さに対して答えがないままでいた。その薄寒さとはきっと、書くことや思考それ自体の自治から遠ざかっていることに起因しているのではないか、と思う。
X・Twitterの140文字と言うのは俳句や川柳のように大喜利をたくさん生み出したし、そこでこそ考えることができる、発信することができる土壌があることにも違いはない。けれども140文字での議論を行うことは不毛だよねとも、ユーザーは半身では思っている。そのような考えについて代替するようにnoteが出てきていて、それも一つの形だとは思う。noteはニュートラルであることがかなり前面に出ていてその意味ではプラットフォームとしてはあり得るのだけど、しかしそのニュートラルさはある種の型を作っており、しつらえはコントロールされているなと思うことも多い。
HTMLやCSSを手打ちして作ることの可能性は、自らがサーバーを持ってさえすれば、(手段ややりくちは限られてたとはいえ)情報を世界に発信できるというその独立性にあったのではないか。今となっては古めかしいその作りに、さらに反転して可能性があるとおもう。その可能性とは、自らが発信する媒体それ自体に手を入れて、発信したい作りとそのアーキテクチャを一緒になって構築することの可能性だ。メディアのフォームに対してなめらかに適応していく自分を抜け出し、自らが思考し、発信したい内容に合わせてそのアーキテクチャ自体を構築することの実践を考えていきたい。それは思考それ自体の確保であり、書くことを支える道具自体の確保にほかならない。きっとそれは思考の自由を確保することなのだろう。