「ないこと」のラグジュアリー:ヴォイドをめぐる戦略について

現代のラグジュアリー空間において、しばしば中心に置かれるのは「何があるか」ではなく、「何がないか」である。空白、余白、沈黙、間、未充填――そうした“ないこと”の存在こそが、ある種の美的・階級的価値を立ち上げる戦略となっている。

この「ヴォイド(void)」1の価値は、都市や商業空間の文脈において特に顕著である。たとえば、高密度で過剰に情報が溢れる都市空間において、広大な何もないロビー、使われていない壁面、意味を持たない床の余白は、それ自体が「贅沢な余裕」として機能する。これは単にスペースの浪費ではなく、「消費されないこと自体が価値になる」という逆説的な演出である。

とりわけ高級ホテルや美術館、高級なブランドの店舗などでは、こうしたヴォイドの空間構成が戦略的に採用されている。アマン東京

のエントランスロビー(fig.1)は、高さ31mのヴォイドが存在する。本来であればこの空間を使って客室を増やせば、より利益が出るであろう状況において、あえて何もないことによる空間の豪奢さがプレゼンテーションされている。これは、機能性や視覚的過剰を排除するだけでなく、空間を占めることができる者=選ばれた者にだけ開かれた特権的な空白を形成する構造である。

この「ないこと」による贅沢の成立は、空間の非効率性を前提とする。効率的な空間配置や使用価値に還元されない構成は、資本主義的計量性に抗う形式でもある。たとえば、視覚的中心を意図的に空ける構成、構造体が見えない設計、用途のない中庭や吹き抜け――端的に言ってしまえば、自分たちのブランドはこのような空間をたっぷりと余らせたまま、なお運用していくことが可能な資本を備えているのだ、というプレゼンテーションである。

この種のラグジュアリーは、機能性のラグジュアリーとは本質的に対照的である。前者が「何ができるか」に価値を置くのに対し、後者は「何もしないことが許される空間」に価値を見る。つまり、ラグジュアリーとは「余剰資源の可視化」だけではなく、「意図的な非使用による資源の秘匿」としても表現されうる。

ヴォイドの戦略には時間的要素も含まれる。すなわち、「何も起こっていない状態」「待たされる時間」「沈黙の持続」といったテンポラルな空白が、ラグジュアリーの体験性を強化する。高級レストランでの待機時間、ギャラリーの静寂な時間の流れ、ホテルロビーの緩やかなリズム――これらはすべて、忙しさからの隔離=ラグジュアリーの時間的演出として機能する。

これは、ある時期までのラグジュアリーが貴族階級で得られる経験そのものであり-そもそも彼らは有閑階級と呼ばれていたが、有閑とはつまり暇が十分にあることであり、生産や労働活動から切り離された階級である-そこでは十分に余暇活動のみが展開される。すなわち特にすることがない、ということ自体が現在のラグジュアリー的な体験の発露でもあった。とするなら、空間の中で取り立ててプログラムがないということは空間そのものにおける勇敢さの結果的な現れと見ることもでき、当然ラグジュアリーを醸し出す空間戦略としても有効だと位置づけられるのだろう。

とりわけホテルという空間は、労働に資するような機能が一切剥がされている。つまりは炊事という機能が存在しない。これは、労働はすべて外在化されるものということであり、家事がすべてアウトソーシングされた空間である。これも先述したような、ラグジュアリーな体験におけるルーツとしての有閑階級のライフスタイル、というものがそのまま立ち上がった空間であると言えるだろう。

したがって、「ないことの戦略」は、単なる物理的空間のデザインではなく、空間・身体・時間を複合的に扱うラグジュアリーの生成装置として理解されるべきである。そこでは、「語らない」「起こらない」「使われない」ことが、ブランドに対する意味として操作が行われているのだ。

1ヴォイド(Void):建築において、壁・床・屋根などの建築要素によって規定される「空」の領域を指す。吹き抜け、中庭、広場などを含み、建築を構成する物体(Solid)と対をなす基本概念である。