バス・鉄道と自家用車/トランジットと偶然性
パートナーと旅行をする際、かなりピンポイントかつローカルな場所へよく行くのだけど、ふたりともペーパードライバーなのでたいていは公共交通機関を利用して移動をしている。
反対に自分は福井の出身なので、帰省した際ないしは親族との移動においては、だいたい自家用車を使用している(自分が運転する、というよりは周りの大人は必ず運転しているので、その車に乗っている)。なので、バランスとしては公共交通機関の利用が多いものの、自家用車もそれなりに利用するような生活をしている。
面白いのは、公共交通機関を利用したピンポイントな場所に行く際の道程には、その場所に行くために迂回をしたりすることが多くあるということだ。鉄道やバスの利用においては、まっすぐ最短距離で到達するということがなかなか難しい。対して自家用車の移動は、行きたい場所に対して最短距離で行くことができる。目的地をGooglemapに入れ、目的地に向かう。もちろん自家用車においても移動中に何かあれば寄り道することもある。けれども、それらは内発的に生まれた動機になる。それは、公共交通機関を利用している際の強制的にそちらに行かなければならない、というものとは性質として異なっているとも思う。
この思考をより深堀りしていたのが、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』に出てくる、徒歩での旅行か輸送かというような議論だったことを思い出す。徒歩での移動は「道すがら」というようなついでの何かが発生するのに対して、輸送は出発地点から到着地点までを効率的に結ぶものとして整理される。確かにその通りだなと思う。ここでのキーワードはその道程において他者性があるのかどうか、みたいなところなのだろう。
そう思うと、ある種のパッケージングされたツアーというのも、存外悪くないのではないか、なんてことも思い始めている。ツアー会社が作ったパッケージツアーというのは、なんとなくバックパックでの自由な旅、みたいものと対極に置かれがちなのだけど、意外とそんなことはないのではないか。あのパッケージも旅行会社を主体とするキュレーションがなされた旅と換言することはできないだろうか。ふだんの自分だったらいかないようなベタベタな観光地に、パッケージのツアーだったら当然のようにいくのもそれはそれで開かれた旅なのではないか。そのようなことを思う。