タイムカプセルとAI、そしてケヴィン・ケリーの『テクニウム』

知り合いと話しているうちに、AIの話題になる。そこで出てきたのが、AIの次なる使い方として、タイムカプセルのようなモデルをつくることはできないか、というアイデアだった。たとえば、古代から西暦1500年頃までの歴史や思想だけを学習させ、その後の近代や現代を知らないAIをつくる。そうしたAIと対話することで、現代を生きる自分たちの価値観を、別の時間軸から相対化できるのではないか、という話である。

もちろん、人文学や哲学を研究する人たちは、過去の思想や文献を通して、それに近いことをすでに行っている。その意味では、まったく新しい発想とはいえないのかもしれない。ただ、これまで専門的な訓練を必要としていた人文学的な視点や知見に、より多くの人が触れられるようになるとすれば、それはそれで面白い可能性だと思う。

この話を聞いて思い出したのが、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』に登場する、コルネットの系統図である。個人的に惹かれているのは、技術の発展を、生物の進化とは異なる仕方で捉えている点だ。生物の進化は、基本的には世代から世代へと連続して受け継がれていく。突然変異のような例外はあるにせよ、ある個体に生じた変化が、種全体の性質として定着するまでには、複数の世代と長い時間を必要とする。

ケヴィン・ケリー『テクニウム テクノロジーはどこへ向かうのか』,みすず書房,p.62

テクニウムと生物の進化の相違点は、生物の中では 形質転換が徐々に進むということだ。革命的な変化が起きることはほとんどなく、すべてがごく小さな変化の長期間 にわたる積み重ねで、それらが各段階で生物に影響を及ぼす。それと対照的に、テクノロジーの変化はいきなり飛び出し、突然の飛躍を遂げ、段階を飛び越える。テクニウムと生物の進化の相違点は、生物の中では 形質転換が徐々に進むということだ。革命的な変化が起き ることはほとんどなく、すべてがごく小さな変化の長期間 にわたる積み重ねで、それらが各段階で生物に影響を及ぼす。それと対照的に、テクノロジーの変化はいきなり飛び出し、突然の飛躍を遂げ、段階を飛び越える。p.62

一方で、技術の発展は、必ずしも世代ごとの連続的な継承に従うわけではない。コルネットの系統図が示していたのは、初期の楽器に使われていた仕組みや形態が、いくつもの段階を飛び越えて、後世のコルネットに再び取り入れられることがある、ということだった。過去の技術が、直後の世代ではなく、はるか後の技術に接続され、そこから小さなイノベーションが生まれる。これは、生物の進化とは決定的に異なる技術の特徴なのだと思う。

もう少し抽象的に捉えるなら、技術においては、時間的な連続性の一部が欠けていても、更新が成立するということなのかもしれない。必ずしも、技術そのものが連続的に進歩し続ける必要はない。いったん使われなくなった技術や、すでに枯れたものとみなされていた技術であっても、社会や環境の側が変化することで、別の意味や可能性を帯びて再び現れることがある。技術が進化するというよりも、技術を取り巻く時代が変わることで、その技術の見え方が変わるのである。

その意味でとらえると、ある意味では更新されず化石のようになっていることそれ自体にも、意味や価値があるのだろうと思う。今の社会におけるメディアは更新することがある程度前提にあるのだけど、変わらなさというものが相対化の装置として働くということ。

タイムカプセルのようなAIも、これと似た構造を持っているように思う。たとえば、近代という時間を経験しておらず、中世的な価値観だけを備えたペルソナが、現代の社会や技術を見つめたら、何を感じ、どのように理解するだろうか。そこでは、歴史を連続的に積み重ねた現代人とは異なる認識が生まれるはずである。ある時代をあえて学習から欠落させることで、それまで接続されていなかった過去の価値観と現代とが直接結びつく。その接続によって、現代の側に新しい見方がもたらされる。

過去の技術が時間を飛び越えて後世の技術に接続されることと、特定の時代を知らないAIが過去の価値観から現代を捉え直すこと。両者は、時間軸に積極的な断絶を設けることで、これまでとは異なる知見や可能性を引き出すという点で、相似形なのではないかと思っている。