ゲームと建築、開放性と没入性

ゲームと建築の文章について。

やはり念頭にあるのは、体験性というものだと思う。建築もゲームも、それ自体に体験性がついて回るとして、その上で体験を考えるための足掛かりとして、異なるメディアを読み解くことで可能性が生まれるのではないか、という問いかけだと思う。体験それ自体の定義、というより、実際に我々の体験性にはいくつかの種類があって、それらを整理することで体験のパターンに迫ること、そのパターンの整理から、空間やゲームの新しい読みを発見することが目的だと思う。建築とゲームの特性を横断することで、ゲーム的に建築を見る、建築的にゲームを見る、という往還する状態を作ることを目的としたい。

その上で、ゲームと建築をいかに議論するかについてを、自分は体験性という視点からゲームと建築をまなざしたときに、どのような類似と差異があるのかを考えたいと思っている。

ここから、自分のゲームに関する来歴と、体験性には違いがあるということに気づいた発端について触れる。その後に、建築を学んでいるときに、考えていることには大きく二つのカテゴリーがあると気がついたことにも触れる。それらはもしかすると、開放性と没入性という二つのあり方として整理できるのではないか。その整理においては、建築もゲームも、ある種の似た議論ができるのではないか、という仮説である。

開放的な体験と、没入的な体験とは、それぞれどのようなものを指すのだろう。たとえば、建築における開放的な体験というものは、公園のようなものがわかりやすい。公園は、まずもっていろんな人が自由にアクセスできるし、その場所においては、一定程度の振る舞いが許容されている。ベンチで寝ている人もいれば、遊んでいる子供もいる。ペットを連れてきている人もいれば、器械体操のような運動で筋トレをしている人もいる。木々の写真を撮る人もいるだろう。そのように、ある場所において、その振る舞いやあり方が、ある一定程度のルールが敷かれているものの、許容されている。それが、ある空間における開放的な体験である、と言えそうだ。その意味において、建築における公共性を帯びた空間は、開放性という概念が、ある程度上位にあるものとして設計される、という点もあるだろう。

あるいは、住宅という、本来であればプライベートな設計においても、周辺のコンテクストや場の読み解きを行い、その場に建築が作られることの必然性を語るということも、建築においてはオーソドックスに行われていると思う。住宅を起点に、まちや場へと開かれるような設計も多々見受けられる。これらも、開放的な体験性を生み出すと言えるのではないか。

反対に、建築における没入的な体験性とはなんだろうか。まず一つに、事業性の高い空間、たとえばホテルやレストラン、ショップなどの空間は、没入性が高く作られていると思う。仮に、あるブランドのための空間を作るとなると、その空間のしつらえが、そのブランドのイメージや価値を醸成し、その世界観に浸ってもらうための作りとすることがよくある。「このテーブルで使われている無垢板は、このブランドの〇〇を表現するものとして、ある山地から取り寄せています」というような表象のあり方には、そのマテリアルが、あるブランドのための記号体系の中に組み込まれていく、という力学が発生している。もっとわかりやすく言えば、テーマパーク的と言ってもよいだろう。ある設定されたテーマ=世界観を最大限に表現するために、さまざまな仕掛けやデザインを、その世界観にマッチするものとしてコントロールしていく。そこでは、表現としても、論理的な一貫性においても、没入的であることが志向される。

このように、空間の体験においては、開放的とされるものと、没入的であるものという二つの類型がありそうだ。それでは、ゲームの体験性における開放性と没入性とはなんだろうかを試論するべきだろう。